ほろにがちよこれいと
01.シンデレラ
「サンドリヨンを知っているかい、マイダーリン」
ソファの背もたれの上で器用に仰向けになって問いかける彼女は、塀の上で箱座りをする野良猫を思い出させる。しかも、光にかざすように本を持ち上げているもんだから、振り返った瞬間どきっとしてしまった。
彼女はこちらの様子に気づかないようで、ねえ聞いてる?と本から目を離さずに催促した。
「知らないよ、マイハニー。これで満足? 目、悪くなるよ。そんな風に本見てると」
「わかってるよー。心配性なマイダーリンには、母の日にカーネーションを贈ってあげるね」
「……せめて父の日に白いバラをよこしてくれ」
きゃらきゃらと、僕にはできない笑い方で彼女は、那子は笑った。無邪気なもんだ――実際にどうだかなんて今更言いやしないが。
このままだとずっとそのままでいそうだったので、机から離れ那子のもとへ。やっと、本を顔からはずした。そのまま、その古めかしい本を奪い取って浅くソファに腰掛ける。彼女は抵抗もせず、またまた器用に背もたれの上で少し向きを変え、肩越しに僕の膝に置かれた本を指差した。
「この悲劇の主人公だよ」
赤茶色のハードカバーの表紙には、『グリム童話』と、真ん中には控えめな靴と、かぼちゃの馬車。いくら”男の子”でも、流石にわかる。
「なあ、これシンデレラだろ? 喜劇ではないだろうけど……悲劇か?」
怪訝の念をこめて問えば、那子は至近距離でにやりとした。
「サンドリヨンはフランスでのシンデレラの名前だよ。こっちのほうが、なんか響きがかっこいいじゃない」
「……。で、悲劇ってのは? なにか、言いたいんだろう」
そんなことないよ、と言いつつ那子はにやにや。一番最初に問題の答えを知った子供のようだ。自分だけが知っている優越感やらどこかいたずら気な様子が隠しきれていない。
「聞きたい?」
「聞きたいよ」
「本当に?」
「本当だって」
満足げに、笑みを深くする。いつでもこいつは笑ってるね、と羨ましいわけではないがふと思った。楽しみ以外を伴う笑みだってあることを、僕はもう知っている。
「あのね、あたし、二人の間に愛があるのかな、って思ってたんだよ」
那子の手が僕の髪をいじっている。表情は見えない。
「だって、ずっとおうちにいたのなら、サンドリヨン――シンデレラは王子様のこと何も知らないじゃない。王子だってそうでしょ? あたし、愛には時間がいるんだと思ってるんだよ」
「うん」
「でもね、王子はわざわざ罠をはってまで、シンデレラを逃がさないようにしようとしたんだ。失敗してガラスの靴しか残らなかったけれど、まあそれで十分だったよね。
で、思ったんだ。王子はとりつかれたんだよ、愛なんかよりもっと強い何かに、とらわれたんだよ、一瞬で」
舌足らずな口調で、確信をこめて言う。そうか、と返すと、それだけで満足したようにうん、とまた笑った。
するすると、背もたれから降りてきて隣にすわって両腕を僕に向かって広げる。本を置いたまま、僕は那子を抱きしめた。
「あのさ……君はこう言われるの好きじゃないかもしれないけど」
「何?」
「君が、サンドリヨン。何かなんてわかんないけど、君はあたしの何かに惹かれたんだね、きっとそれはあたし自身じゃない」
「そんなこと」
「いいんだ、それで。だけどね、あたしは王子様なの。君にとりつかれちゃった王子様。逃げようとしたら、一度、二度の金と銀の靴は逃すかもしれないけど、三度目には絶対捕まえるから」
耳元で甘ったるい声に混じるのは、それと真逆な硬質で冷淡なもの。背中をぞくっと駆け上がる。恐怖のようで、恍惚のようで、感嘆。
首にまわった彼女の手が、僕を彼女に繋ぎとめる首輪なのではないかと、妙な錯覚が起こる。嫌悪はない。同時に、気づいた。
「きっとさ」
「何?」
「多分さ、シンデレラも同じ気持ちだったんだろう? 怪奇現象に臆することなく従ったのは、姿すら知らない王子様にとらわれていたから」
きょとん、とした那子と目が合う。丸い目を一層丸くして、二回まばたく。
「そっかあ……。そっか、それならわかる、うん、納得」
「そだろう。じゃあ、おやつの時間。準備するから、どいて」
「うん」
僕がシンデレラで、君が王子様。魔法使いはいないのに、意地悪な継母と義姉は沢山。
ソファの背もたれの上で器用に仰向けになって問いかける彼女は、塀の上で箱座りをする野良猫を思い出させる。しかも、光にかざすように本を持ち上げているもんだから、振り返った瞬間どきっとしてしまった。
彼女はこちらの様子に気づかないようで、ねえ聞いてる?と本から目を離さずに催促した。
「知らないよ、マイハニー。これで満足? 目、悪くなるよ。そんな風に本見てると」
「わかってるよー。心配性なマイダーリンには、母の日にカーネーションを贈ってあげるね」
「……せめて父の日に白いバラをよこしてくれ」
きゃらきゃらと、僕にはできない笑い方で彼女は、那子は笑った。無邪気なもんだ――実際にどうだかなんて今更言いやしないが。
このままだとずっとそのままでいそうだったので、机から離れ那子のもとへ。やっと、本を顔からはずした。そのまま、その古めかしい本を奪い取って浅くソファに腰掛ける。彼女は抵抗もせず、またまた器用に背もたれの上で少し向きを変え、肩越しに僕の膝に置かれた本を指差した。
「この悲劇の主人公だよ」
赤茶色のハードカバーの表紙には、『グリム童話』と、真ん中には控えめな靴と、かぼちゃの馬車。いくら”男の子”でも、流石にわかる。
「なあ、これシンデレラだろ? 喜劇ではないだろうけど……悲劇か?」
怪訝の念をこめて問えば、那子は至近距離でにやりとした。
「サンドリヨンはフランスでのシンデレラの名前だよ。こっちのほうが、なんか響きがかっこいいじゃない」
「……。で、悲劇ってのは? なにか、言いたいんだろう」
そんなことないよ、と言いつつ那子はにやにや。一番最初に問題の答えを知った子供のようだ。自分だけが知っている優越感やらどこかいたずら気な様子が隠しきれていない。
「聞きたい?」
「聞きたいよ」
「本当に?」
「本当だって」
満足げに、笑みを深くする。いつでもこいつは笑ってるね、と羨ましいわけではないがふと思った。楽しみ以外を伴う笑みだってあることを、僕はもう知っている。
「あのね、あたし、二人の間に愛があるのかな、って思ってたんだよ」
那子の手が僕の髪をいじっている。表情は見えない。
「だって、ずっとおうちにいたのなら、サンドリヨン――シンデレラは王子様のこと何も知らないじゃない。王子だってそうでしょ? あたし、愛には時間がいるんだと思ってるんだよ」
「うん」
「でもね、王子はわざわざ罠をはってまで、シンデレラを逃がさないようにしようとしたんだ。失敗してガラスの靴しか残らなかったけれど、まあそれで十分だったよね。
で、思ったんだ。王子はとりつかれたんだよ、愛なんかよりもっと強い何かに、とらわれたんだよ、一瞬で」
舌足らずな口調で、確信をこめて言う。そうか、と返すと、それだけで満足したようにうん、とまた笑った。
するすると、背もたれから降りてきて隣にすわって両腕を僕に向かって広げる。本を置いたまま、僕は那子を抱きしめた。
「あのさ……君はこう言われるの好きじゃないかもしれないけど」
「何?」
「君が、サンドリヨン。何かなんてわかんないけど、君はあたしの何かに惹かれたんだね、きっとそれはあたし自身じゃない」
「そんなこと」
「いいんだ、それで。だけどね、あたしは王子様なの。君にとりつかれちゃった王子様。逃げようとしたら、一度、二度の金と銀の靴は逃すかもしれないけど、三度目には絶対捕まえるから」
耳元で甘ったるい声に混じるのは、それと真逆な硬質で冷淡なもの。背中をぞくっと駆け上がる。恐怖のようで、恍惚のようで、感嘆。
首にまわった彼女の手が、僕を彼女に繋ぎとめる首輪なのではないかと、妙な錯覚が起こる。嫌悪はない。同時に、気づいた。
「きっとさ」
「何?」
「多分さ、シンデレラも同じ気持ちだったんだろう? 怪奇現象に臆することなく従ったのは、姿すら知らない王子様にとらわれていたから」
きょとん、とした那子と目が合う。丸い目を一層丸くして、二回まばたく。
「そっかあ……。そっか、それならわかる、うん、納得」
「そだろう。じゃあ、おやつの時間。準備するから、どいて」
「うん」
僕がシンデレラで、君が王子様。魔法使いはいないのに、意地悪な継母と義姉は沢山。
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